書の著者は、時として自身の知識以上のことを記す。ある事柄を述べ、それに関する比喩を用いる。その比喩は、それ自体、深遠ではっとさせられるものだが、この世界についての研究が進むにつれて、いっそう深遠で、私たちの目を開いてくれるものとなる。

たとえば、詩篇8篇の有名な個所を見てみよう。「あなたの指のわざである あなたの天/あなたが整えられた月や星を見るに/人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは」(3–4節)。この個所を今読んで、私たちが驚嘆するのは、実はダビデが知っていたよりも何億倍もの星が存在するということ、そして、人類は宇宙において、彼の理解よりもはるかに小さい存在だということだ。あるいは、神は光であるというヨハネの言葉を思い巡らしてみよう。この言葉には、ヨハネが想像したよりも多くのニュアンスがあることを、私たちは知っている。白色光に含まれるいろいろな色の帯、光子逆説、スペクトルの不可視光線部分などがそれだ。

このことの一つの美しい例は、聖書の末尾の章にある。その中で、ヨハネはイエスの言葉をこう記している。「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である」(黙示録22:16)。この言葉の前半の意味は、逆説的かもしれないが明らかだ。イザヤが預言したとおり、イエスはメシアの家系から出た者(「ダビデの子孫」)であると同時に、その源(「根」)でもある。だが後半には、ヨハネが全く意識していなかった深い意味が含まれている。

古代世界の人々は、誰しも明けの明星を知っていたはずだ。その明るい輝きは、人類史においてたびたび言及されている。シュメール人の神話から、ギリシャの詩、フィンセント・ファン・ゴッホの「星月夜」に至るまで。天空において、太陽と月に次ぐ明るさを持つ天体として、明けの明星は、仲間よりも明るく輝く物体や人物のわかりやすいたとえとしてよく用いられた。聖書の中でも、別の個所でそのような比喩として用いられている。それは、否定的なイメージ(イザヤ書14:12–15においてバビロンの王の描写として)でも肯定的なイメージ(2ペテロ1:19においてキリストの描写として)でも出現している。ヨハネは黙示録において、明らかに後者の意味でこのたとえを用いている。

ヨハネはこのイメージの中に、何か別のものも思い描いていた可能性がある。新約聖書が書かれた時代には、教養あるギリシャ・ローマ人は、明けの明星と宵の明星が同一であることを知っていた。最初に現れる星と最後に消える星は、一つの同じ星だった。イエスは黙示録22章で、たびたび歴史の初めと終わりにいる存在として描写されている。アルファとオメガ、最初と最後、初めと終わり、根と子孫と記されている。そう考えると、ヨハネはこのつながりも思い浮かべていたのかもしれない。イエスは天空において最も明るい星であるばかりか、他の星々が出現する前にいる星であり、他の星々がすべて消え去った後にいる星である。

だが、ヨハネが知らなかったことがある。それは、明けの明星は夜空に輝く他のどの星とも根本的に異なるということだ。この星は気体ではなく岩でできている。自分で光を放つのではなく、太陽光を反射している。物理的に言えば、その性質は他の天体よりも地球に似ている。今日、私たちはこの惑星を金星と呼ぶ。

ヨハネはまた、明けの明星が他の天体よりもかなり近くにあったことは知る由もない。当時、宇宙の仕組みについては様々な説があり、太陽、月、惑星、その他の天体がどのように位置しているかについても諸説あった。ヨハネがそうした説についてどれだけ知っていたかは、憶測するしかない。しかし、彼が想像することもできなかったであろう事実がある。それは、明けの明星は、次にいちばん地球に近い星と比べて、17万5千倍も地球に近いということだ。

金星と他の星々との関係のように、イエスは他の神々と比べる時、それらすべてと全く異なる。神学という夜空に浮かぶ他の星はすべて、はるか遠くにあり、心を動かされることも、自ら動くこともない。それに引き換え、明けの明星は別格だ。他の星々よりはるかに明るく輝いているだけではない。天空の交響曲を、序曲として開始し、フィナーレとして締めくくるだけではない。その真髄をなす性質において、他とは異なり、にわかに信じがたいことではあるが、私たちと似たお方であり、私たちが思うよりもずっと近くにいてくださるのだ。

通常、釈義学的には、原著者が意図しなかった意味をテキストに見出すのは、良くないこととされている。しかし、そうは言っても、みことばには原著者が二人いる。神と人間の二人だ。今日取り上げた個所の語り手は明けの明星ご自身であり、天とその中にあるすべてのものの創造主であり、主なるイエスである。そう考えると、この個所には私たちが知っている以上の意味があるのかもしれない。

アンドリュー・ウィルソンは、キングズ・チャーチ・ロンドンの教育担当牧師であり、「God of All Things(すべてのものの神)」の著者である。

翻訳:立石充子

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